最終レポート1

「少ゼミをつうじての私の学びと成長」

確か1コマ目の授業でも述べたが、私が少人数ゼミナール「環境保全のススメ」を履修したきっかけは、きっかけと呼べるかどうかも怪しいほど、実に些細なものだった。
2007年度後期授業開始第一週目月曜日、5限目に授業を入れるか入れまいか迷っていた私は、六本松の掲示板をちらりと見やって、たまたま目の端に映った「環境保全のススメ」の文字になんとなく惹かれ、そのまま掲示されていた教室へ足を運んだのである。


少ゼミの授業は、毎週とても楽しく、また興味深く受講させていただいた。
しかしここでは、あえてその1コマ1コマに触れることはしない。
各授業それぞれの感想は毎、週授業の最後にしたためた通りである。
当稿では、この「皆でものを言う場」としての少ゼミ授業全体を通して起こったと思しき、自らの「ものを言う」姿勢の変化を追っていければと思う。


正味な話、私は人前でものをいうのがかなり苦手である。
周囲に余計な気を使ったり、萎縮してしまったりして言いたいことを抑えこんでしまっていた、というのもある。
会話の流れに頭の回転が付いていかないのである。
ところが、この少ゼミではすんなりと自分の意見を口にすることができた。
むしろ、少ゼミの方々には「一言多い人だ」との印象さえ持たれてしまったかも知れない。
とは言っても、これまでそのような機会――余計な気兼ねをすることなく思ったことを口にできる場――にぜんぜん恵まれなかったかというと、そうでもない。
また、このような自分の一面にまったく無自覚であったわけでもない。
少ゼミという場の中にあって、私の何がこれまでと違ったかというと、自分が口にした内容に対する反省の中身である。


私は長らく、自分の言ったこと・やったことを、あとで気に病みすぎる性格であった。
しかも、その憂欝の中から何を得るでもなかった。
自分が常に周囲から浮いていると過剰に意識する時期が長かったのだが、それを修正せばならないという強迫観念から自由になれないでいた。
また、たまに気兼ねなくものを言える機会に恵まれたとしても、そこからのちのち有益なものを得ることは少なかったように思う。
「気兼ねなくものを言える」そのこと自体に満足してしまって、「何を言ったか」についてはほとんど省みることがなかったからである。
それはおそらく、気兼ねなくものを言えた「機会」というのが、その場限りの人々からなっており、また意見交換というよりはその場を楽しむことを目的とした場――たとえば、英会話学校の親睦会、のような飲み会――であったからだろうと考えている。


いうまでもなく、少ゼミは「楽しい」場ではあっても「楽しむ」ことだけを目的とした場ではない。
私にとって少ゼミは「環境保全」を中心に据えて、各々自分の意見をもって口を開くことを要求される場、一定のテーマ・ルールの下でいろいろな人たちの考え方に触れることのできる場であった。
そのようなある種の緊張感があるところで「気兼ねなくものが言える」と感じたのは、実を言うとこれが初めてである。
というのも上で触れたように、余計な気を遣うことなく言いたいことを口にできた場というのは、その場限りの、悪く言えば弛緩した雰囲気のものであった。
また、緊張感のある場では萎縮してしまい、なかなか会話の中に入っていけなかったことも述べた。
それがなぜ少ゼミには緊張感を持ちつつも楽に臨めたのかというと、先生方の進行の巧みさもおかげもさることながら、履修生の皆さんが個性的な人ばかりで、自分が浮いているという違和感をマイナスに捉えずにすんだからではないか。
もちろん少ゼミを受講する以前にも、浮いている自分を否定するまいと意識はしていた。
しかし、そのように努めて意識することそのものに無理を感じていたことは否めない。
少ゼミは、これまで「意識」しなければマイナスでしかなかったものを言うときの違和感を意に介することなく、むしろプラスに発揮できた(と感じられた)場であった。
そこから余裕が生まれ、私は自分が言ったことがどう思われたかではなく、自分が何をどう言ったかを反省し、またそれを楽しむことができるようになったと感じている。

(文学部4年 女子学生)